宝成寺の由緒
宝成寺について
山号 | 茂春山(もしゅんざん) |
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寺号 | 宝成寺(ほうじょうじ) |
宗派 | 曹洞宗(禅宗) |
本尊 | 宝冠釈迦如来 |
開山 | 月渓智泉大和尚(げっけいちせんだいおしょう) 大本山總持寺開祖常済大師十三世法孫 |
草創開基 | 葛西六郎茂春 法名、茂春宗繁居士 |
創立年月 | 不詳(天正年間、1500年代後期とされる) |
縁起 | 徳川家康公御入国、御順見の際、長久手の戦い、関が原合戦で軍功があった成瀬正成公が供奉し、行徳領に更封を請け、当時下総国葛飾郡栗原郷に於いて知行四千石余を賜る。 家康公御上意にて栗原八か村(本郷村、寺内村、古作村、印内村、小栗原村、二子村、山野村、西海神村)が領地となり、領地内にあった法城寺を菩提所と定め、城の字を成瀬の成字に、法の字を寶字に替え、宝成寺と改める。 草庵同様のたたずまいであった宝成寺は、当山三世、名州太誉和尚の代(1600年代中期)に成瀬氏より法器、仏具の新添をうけ、殿堂の建立も成し遂げ、曹洞宗宗門における一角に、宗風挙揚の専門道場を築き上げた。前本堂は、当山十三世、須山大亨和尚の代(1789年)、犬山城五代目城主、成瀬正泰公により建立されたものである。 |
歴代住職
開山 | 月渓智泉大和尚 |
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二世 | 能山鷹藝大和尚 |
三世 | 名洲太譽大和尚 |
四世 | 蘆洲英荻大和尚 |
五世 | 實泉頻秀大和尚 |
六世 | 崇山智燈大和尚 |
七世 | 玩州智玉大和尚 |
八世 | 廣州慧観大和尚 |
九世 | 玉巖元粹大和尚 |
十世 | 戒舟亮授大和尚 |
十一世 | 提山以全大和尚 |
十二世 | 大亮梵英大和尚 |
十三世中興 | 須山大亨大和尚 |
十四世 | 泰山仙陵大和尚 |
十五世 | 頑山仙介大和尚 |
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十六世 | 月潭泰紋大和尚 |
十七世 | 祥山千瑞大和尚 |
十八世 | 恭山思謙大和尚 |
十九世 | 大訥愚禪大和尚 |
二十世 | 大義見孝大和尚 |
二十一世 | 天山義祐大和尚 |
二十二世 | 海巌本潮大和尚 |
二十三世 | 覺眼自性大和尚 |
二十四世 | 祖海霊道大和尚 |
二十五世中興 | 活宗隆禪大和尚 |
二十六世 | 探玄隆宏大和尚 |
二十七世 | 天山隆春大和尚 |
二十八世 | 太嶽隆誠大和尚 |
犬山歴代城主
初代 | 白林院殿直指宗心大居士 成瀬 正成 |
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二代 | 乾龍院殿一岳宗無大居士 成瀬 正虎 |
三代 | 栢貞院殿節功良忠大居士 成瀬 正親 |
四代 | 随峯院殿實相轉幽大居士 成瀬 正幸 |
五代 | 諦幻院殿泰翁宗峻大禪定門 成瀬 正泰 |
六代 | 一珠院殿自得日慶大禪定門 成瀬 正典 |
七代 | 舜徳院殿泰岳道寛大居士 成瀬 正壽 |
八代 | 淳教院殿一貫以道大居士 成瀬 正住 |
九代 | 興徳院殿髙節英嶽大居士 成瀬 正肥 |
栗原藩成瀬氏について
成瀬正成は徳川家康の側近の一人で、軍功を重ね、天正18年(1590年)に家康が関東に移ると栗原郷4千石を与えられた。その後、正成は関が原の合戦においても軍功があり、境奉行などの職を歴任し、石高を加増されて大名に列した。家康の子義直が尾張徳川家を創設すると、そのお付家老として後見役に任ぜられ、元和3年(1617年)には尾張犬山城主となった。正成は寛永2年(1625年)、江戸で没し、栗原本郷の宝成寺で荼毘に付され、後に日光に改葬された。
正成の死後、犬山城主は長男正虎が継いだが、正成は生前、次男之成に栗原4千石を譲っていたので、之成が栗原藩の2代目となった。その後は之成が寛永11年(1634年)に39歳で没したため、わずか1歳の之虎が跡を継いだ。その之虎も4年後の寛永15年(1638年)に5歳で夭折し、栗原藩成瀬家は断絶した。一方、犬山の成瀬家はその後も続き、明治時代には子爵となった。
宝成寺は、江戸における成瀬家の菩提寺とされていたので、栗原藩断絶後も一族の墓が営まれ、明治9年までの墓碑が残されている。